【写真あり】 衝撃!幕末の偉人・吉田松陰は相当クレイジーな人だった【教科書に載ってない】

  • 更新日:2017年5月4日
  • 公開日:2012年5月26日

授業で習った吉田松陰は、松下村塾を開いた聖人君子のイメージかもしれないですが、とんでもない。彼は相当クレイジーな人間だったんです。

吉田松陰はこの人。

吉田松陰の肖像画
多少厳しそうな眼差しをしつつも、偉人らしく穏やかに見えますが、この人の人生は無茶の連続でした。

たとえば、21歳の時、松陰は親友と東北旅行を計画します。しかし、自藩の長州藩に申請した通行手形がなかなかもらえず、友と約束していた旅行日に間に合いそうにありません。

そこで彼はどうしたか?

 

しょうがないので、松陰は死罪覚悟で脱藩します。

 

いくら目的が東北の海防調査という意義深いものとはいえ…。

旅行の約束をした親友・宮部鼎蔵(みやべていぞう)も正直ドン引きしたと思います。

宮部鼎蔵の肖像画 「なにもそこまで…」
※管理人の想像
ちなみにこの方、後に池田屋事件新選組に襲われ自害します。

さて。吉田松陰 23歳の時、黒船が来航しました。

黒船来航
当時は鎖国まっただ中。武士も農民も、畏敬と好奇の目でアメリカ艦隊を遠巻きに見ています。

そんななかで松陰。

彼はこれを「先進国に外国留学するチャンス!」と捉え、黒船に乗り込み密航させてもらおうと考えました。

「外国に対抗するには、その外国文明自身を徹底的に盗んでやろう。」

吉田松陰の凄さは徹底的に実践するところ。この場合も可能かどうかを悩む時間も惜しいのか、特に周到な計画も立てずに、

 

盗んだ小舟でアメリカ艦隊に横づけし、黒船のデッキに乗り込みます

 

吉田松陰が実際に乗り込んだ黒船・ポーハタン号↓↓
黒船・ポーハタン号の写真
当然追い返されました。

追い返されたのですが、このクレイジーな出来事はペリー提督をたいへん驚かせました。

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