「酒井伴四郎日記」ってなに?
今回紹介するいわゆる「酒井伴四郎日記」(読み:さかいはんしろうにっき)は、紀州和歌山藩の下級武士・酒井伴四郎(28歳)が参覲交代でやってきた江戸での約1年半の日々を詳細に綴った日記のこと。残念ながら現存するのは半年分ほどなのですが、近年、江戸勤務を終え国許の和歌山へ帰る直前の数日分の日記や2度目の江戸勤務、長州征伐への参加に際した日記も発見されています。
伴四郎が江戸へやってきたのは、万延元年(1860年)5月末のこと。万延元年といえば1月には勝海舟が咸臨丸でアメリカへ向かったり、3月には桜田門外の変で大老・井伊直弼が暗殺される大事件が起きたりと幕末感満載な時期です。
幕末の江戸といえば、
人々は浮き足立ち、
不穏な空気が流れている……
というイメージがありますが、酒井伴四郎の日記からはそんな空気はほとんど感じられません。ただ、インフレによって色々なものの物価が高騰していたというのは、節約に苦心する伴四郎のようすから伺えます。日記とはいえ、伴四郎も政治的なことや思想的なことはあえてあまり書かなかったのかもしれません。
酒井伴四郎が仕える紀州和歌山藩といえば、尾張藩、水戸藩とならぶ「徳川御三家」のひとつ。“暴れん坊将軍”で知られる8代将軍・徳川吉宗の出身藩でもあります。
伴四郎はその紀州和歌山藩の下級武士で、「衣紋方(えもんかた)」という役職についていました。これは故実に則った装束の着用についてのアレコレを小姓(殿さまのお世話係)などに指導する仕事で、禄高は25〜30石。時に江戸を代表する豪商・三井越後屋に出向いて店の者たちに指南することもあったようです。
「衣紋方」の仕事はなんだか堅苦しくてたいへんそうですが、実際はかなりの閑職のようで、日記に残された出勤日は以下のよう。
- 6月の出勤日→6日間(午前10時から昼まで)
- 7月の出勤日→0日(!?)
- 8月の出勤日→13日間(午前8時から昼まで)
- 9月の出勤日→11日間(午前8時から昼まで)
- 10月の出勤日→8日間(午前8時から昼まで)
- 11月の出勤日→9日間(午前8時から昼まで)
出勤日より休日のほうが多いじゃないか!うらやましい!!
なので自由時間を利用して伴四郎はちょくちょく江戸市中をあちこち歩き回っては江戸名物を食べたりしています。
ちなみに伴四郎が江戸で暮らしていたのは、赤坂紀の国坂にある紀州和歌山藩江戸藩邸の北側にあった勤番長屋。どうもボロ長屋だったそうです。そこに伴四郎は叔父で衣紋方の師匠でもある宇治田平三と同僚・大石直助の3人で生活していました。
では、酒井伴四郎の日記をもとにその生活をちょっと見てみましょう。
江戸単身赴任、まずは挨拶と新生活グッズの買い出しから
江戸への単身赴任を命じられた酒井伴四郎たちが国許の和歌山を出発したのは万延元年(1860年)5月11日のこと。そこから岸和田を経て大坂、伏見から大津へ進み、中山道を通って江戸へ向かいました。
伴四郎は道中のことも日記に残しているのですが、梅雨の真っ只中なうえ雨の多い年だったようで、増水した川を渡る苦労や洪水被害のようすなども記しています。どうやらとても大変な旅だったようです。
とはいえ、草津名物の姥が餅(うばがもち)や碓氷峠の「峠の力餅」といった道中の名物もきっちり味わっています。
5月29日、いよいよ江戸に到着します。和歌山→東京なんて今なら半日もかかりませんが、江戸時代には18日もかかる大移動です。なにせ徒歩ですので。
江戸に着いて早々、伴四郎は旅装から着替えをしてあいさつ回りをしたり江戸到着の届けを出したりと大忙し。慣れない土地で単身赴任する勤番武士にとってお世話になる人々へのあいさつは重要な仕事であり、手土産にも気をつかったことが伴四郎の日記からもわかります。
あいさつ回りのあとは新生活に必要なものの買い出し。気になる買い物の内容は、火箸に土瓶、衣紋竹(えもんたけ/今でいうハンガー)、風呂火口(火吹き竹)、行平鍋ーーザ・単身赴任といったラインナップです。
朝から動き通しで疲れた伴四郎、長屋へ帰る途中にそばを二膳食べました。「江戸グルメといったらそば」というイメージがありますが、当時もすでにそうだったのかもしれません。まぁ、江戸のあちこちにそばを食べさせる店があったので単に目に付いただけかもしれませんが。
伴四郎は江戸のそばが気に入ったようで、外食のなかでもそばがダントツで多く、しかもいつも二膳食べています。あとだいたい一緒に酒も飲んでいます。
余談ですが、紀州田辺藩の原田という医者が江戸での単身赴任中のあれこれを書き残した『江戸自慢』という本のなかで紀州と江戸のそばの違いについて述べています。以下、超訳。
「江戸のそばは鶏卵を使わず小麦粉をつなぎにしてるので、口触りが固くて胸につっかえ三杯はとても食えたもんじゃない。ただ汁はとんでもなく美味い。紀州のそばを江戸の汁で食べたら絶対最高。ハラが裂けるほど食べられる」
伴四郎たちも江戸のそばを食べながらこんな感想を抱いたかもしれません。
節約!自炊!伴四郎のささやかな日常
国許に妻と子どもを置いて単身赴任中の酒井伴四郎(28歳)。
細々した日記を残していることからもわかるようにとても几帳面な性格のうえ節約家でもありました。伴四郎ら江戸に単身赴任でやってきた武士には特別手当が出たほか、米も現物支給されました。伴四郎などは米を節約してわざと残し、残った米を売って現金にしています。
節約家の伴四郎は「たかが一文、されど一文」という考え方で少しでも得になるよう細々と計算をし生活しましたが、同居する叔父で師匠の宇治田平三は真逆のタイプで、そんな伴四郎の細かさを嫌っていたようです。伴四郎は若いのにできた人物で、叔父の顔をたてるため時には損をするとわかっていながら叔父の意見を聞き入れることもありました。でもそんな時は日記に「も〜損するってわかってたのにさぁ!あぁもうやりきれねぇ!」と鬱憤をぶつけています。
藩の長屋で暮らす伴四郎たちのような下級武士には、食事をつくってくれる使用人もいません。なので自炊です。男子厨房に入らず、などといっている場合ではありません。国許にいるときには当然食事をつくるなんてことをしなかったでしょうから自炊も初体験だと思われますが、伴四郎は料理上手なうえ、安いものを安い時に買って作り置きするーーなど主婦の知恵的なスキルも持ち合わせていました。
先述したように伴四郎はボロ長屋に叔父の宇治田平三と同僚の大石直助との3人暮らし。日々使う醤油や砂糖などの調味料は共同購入でしたが、米は全員分をまとめて炊いたようです。おかずは各自が自分で用意するのが基本だったようです。
炊事は当番制なのですが、上司であり師匠でもある叔父は免除となり、伴四郎と直助が交代で担当しました。
伴四郎たちは昼に米を炊き、晩と翌朝には冷や飯を粥や茶漬けにして食べていました。特に、塩を加えた茶で冷や飯を煮る「茶飯」は登場頻度の高いメニュー。これは彼らの故郷・和歌山や奈良など近畿地方に古くからある郷土食だったそうで、ふるさとを思い出す味だったのでしょう。
余談ですが、幕末に書かれた風俗百科事典『守貞謾稿』によれば、京坂では昼に米を炊き、煮物や煮魚をおかずに味噌汁などと一緒に食べ、江戸では朝に米を炊き味噌汁と一緒に食べたのだとか。米を炊くタイミングが東西で違うというのはおもしろいですね。伴四郎は和歌山出身なので上方スタイルなのです。
現代と違い炊飯ジャーなどない江戸時代。米を炊くにもテクニックが必要でした。伴四郎たちも米炊きには苦労したようで、日記にこんなことを書き残しています。
一日中雨。昼に五目ずしをつくろうと全部の具を刻んで煮付けた。さて米を炊こうという時に直助が「あ!おれやる!」というので任せたら、炊き上がった米がものすごくマズかった。結果、五目ずしもものすごくマズかった。あーあ、おれに任せとけばウマい五目ずしになったのに。
ちなみにマズい五目ずしの残りは粥にしてみんなの夜食になりました。
マズいごはんは別の日にも。
長屋に帰ってきて、さてご飯だ!と食べ始めたらなんてことだ……ごはんがめちゃくちゃマズい。粥みたいにべちゃべちゃでとにかくマズい。江戸に来てから直助の炊くごはんはいっつも粥みたいだし、自分で炊くごはんはいっつも硬い……。
10月末ということは江戸に来てすでに5ヶ月も経っていますが、さしもの料理上手な伴四郎も米炊きスキルはなかなかアップしなかったようです。
おかずの定番は焼き豆腐といわし
伴四郎は武士といえども薄給のため、その食事内容は江戸の庶民とあまり変わらないようなものでした。
たとえばよく伴四郎が買った食材が豆腐。豆腐は白米、大根と並び「江戸の三白(さんぱく)」と呼ばれるほど江戸の人々にとってポピュラーな食材。豆腐は、安い!ウマい!栄養満点!と三拍子揃っているうえ調理法もさまざまあるので、日常の食事に欠かせないものでした。
伴四郎もよく豆腐を買ったようなのですが、特によく買ったのが焼き豆腐。これは豆腐を串に刺して焼いたもので、そのまま食べたり、味噌を塗って田楽にしたり、煮たりしたと思われます。ちなみに『守貞謾稿』によれば、上方の豆腐に比べると江戸の豆腐は白くなくて堅く味も劣っていたんだそう。現代でも京都の豆腐は有名ですよね。
野菜でいえば大根はもちろん、伴四郎はナスをよく買ったようです。江戸近郊だと砂村(現・江東区)や目黒などのナスが有名でした。
魚ではイワシや鮭を重宝したようです。
魚に関する伴四郎のおもしろかわいそうなエピソードがあるのでちょっと紹介します。
昼にお隣の児玉からアジの干物25匹ほどもらった。昼飯には昆布を煮たものの残りがあったのでそれを食べようと思っていたら、叔父にまたしても半分食べられた……。夕飯は茶漬けですませ、もらったアジの干物は明日の昼飯にしようととっておいたのに、叔父が勝手に食べてしまった。昨日からハラが痛いといっていたのに叔父は食い意地が張りすぎている。いつものことながら困ったもんだ。夜、夜食にお茶漬けでもしようと思い茶を沸かしに行く途中、土瓶を蹴って割ってしまった。代わりに薬用の土瓶で茶を沸かして、昼にもらったアジの干物を焼いてみんなで食べた。
伴四郎、踏んだり蹴ったりの1日です。
当時アジは高価な魚で、伴四郎もめったに口にできないアジの干物のプレゼントにウキウキしたことでしょう。なのに叔父さんに勝手に食べられるは、残しておいたおかずも半分食べられるは、土瓶は壊しちゃうはで散々です。
先述したように叔父さんは伴四郎とは正反対のルーズなタイプなうえ、ものすごく食い意地が張っていて、すぐに伴四郎のおかずを黙って食べてしまう困った人。この日以外にも伴四郎はちょくちょくおかずを食べられています。でも仕事上の師匠でもあるので伴四郎は文句を言うこともできず、不満は日記にこっそりしたためるしかなかったのかと想像すると同情しまいます。
魚に関するかわいそうなエピソードをもうひとつ。
「カツオを持っていくのでその間に酒の準備よろしく!」と民助から伝言がきた。さっそく出入りの商人に酒と醤油、酢を持ってくるよう頼む。民助がカツオの片身を持ってやってきたので調理し、みんなで酒盛りをした。しかし、ちょっとカツオにアタったようで叔父と直助は一晩中代わる代わるトイレ通い。自分も昼から頭痛がしてたのにカツオを食べたもんだから、ハラがでんぐり返るほどツラい……。
せっかくのカツオですが残念なことにイタんでたようです…。
江戸のカツオといえば、異常な盛り上がりをみせた初鰹フィーバーが有名。そのためカツオというと高級魚のイメージがありますが、8月ともなれば値段もすっかり下がっていたようで、伴四郎もよくカツオを買っています。
さて、先ほどのアジの干物のように、ご近所から食材のおすそわけをもらうことはよくあったようです。
昼頃に近所に住む五郎右衛門がずいき(里芋などの茎)を5株くれたので、早速おかず用に煮て、五郎右衛門にも一皿あげた。
食材やおかずのおすそわけだなんて、長屋住まいの庶民と同じような光景が下級とはいえ武士たちの間でも行われていたのを想像するとちょっと微笑ましい。
伴四郎の長屋にはよく人が訪ねてきて酒を飲んだり碁を打ったりしているのですが、こうした交流のなかで交換されたのは食材だけではなく、藩内や江戸市中でのニュースや噂話などといった情報も交換されたんだとか。
食材のおすそわけといえば時にちょっと“危険”なモノが伴四郎のもとへ届けられることもありました。
午後3時過ぎ、民助が殿の鷹のエサになるハトをこっそり持ってきた。さっそく調理してみんなで集まって食べ、酒盛りした。
なんと、殿の鷹狩で使われる鷹の大事なハト(エサ用)を食べてしまったのです。一体どういうルートで手に入れたのかはわかりませんが、バレたら相当にヤバいことは明白です。
現代人からすると「え…ハトを食べるの??」と思ってしまいますが、江戸時代にはハトもれっきとした食材でした。汁物にしたり煮物にしたり焼物にしたり、骨ごと叩いて味噌と一緒に煮て小鍋仕立てにしたり。伴四郎たちが殿さまの鷹から横取りした貴重なハトをどのように食べたのか気になりますが、禁断のその味はさぞかし美味だったことでしょう。
伴四郎はハト以外にもちょこちょこ肉食をしています。
「江戸時代には肉食がタブーだった」というイメージがありますが、幕末ともなればわりと肉食もしていました。特に鳥肉は食材としても比較的ポピュラーで鴨や雁、軍鶏、キジ、雀、ハトーーはてには白鳥や鶴も食べられていました。
ただし豚やイノシシ、鹿などの四足獣はまだ公然と売ったり食べたりするのがはばかられたようで、人々は「薬食い(くすりぐい)」と称し「これは獣の肉ではありません。薬です。体調が悪いので薬を摂取しているだけです(豚肉モグモグ)」という建前のもとで肉料理を楽しんでいました。伴四郎も風邪を理由に豚肉をよく買っています。ついでに風邪を理由に酒も飲んでいます。
ついでに伴四郎はゆで卵も好物だったようです。
単身赴任でも季節をたいせつに
単身赴任、しかも男だけの生活だと食卓に季節感なんてなくなりそうなものですが、伴四郎は季節ごとの行事食もきちんとつくっていました。えらいなぁ。
たとえば夏。
今日は七夕の節句なので奮発してサバを一本買って酒を飲む。昼食後に昼寝して、3時頃にそうめんを茹でて食べた
7月7日はいわずと知れた「七夕」の日。江戸時代、七夕は幕府が決めた重要なお祝い行事の日「節句」のうちのひとつでした。七夕のほかに「人日」(1月1日)「上巳(じょうし)」(3月3日)「端午」(5月5日)「重陽」(9月9日)があり、あわせて「五節句」といいます。
そして七夕に欠かせないメニューがそうめんだったのです。
将軍家も下級武士も庶民も貴賎にかかわらず七夕にはみんなそうめんを食べたそう。また、七夕が近づくとそうめんを贈り合うという習慣もあり、伴四郎も出入りの商人らからたくさんのそうめんをもらっています。
夏の食材として人気だったのがどじょう。
外食でどじょう鍋をよく食べた伴四郎ですが、どじょうを買って自分で調理することもありました。どじょう料理といえば柳川鍋(ささがきしたごぼうをしいた鍋のうえに開いたどじょうを並べ味噌や醤油で煮て卵とじにしたもの)が有名ですが、これは江戸時代にもありました。ただしちょっとお高めの料理で、庶民や下級武士が口にするどじょう料理といえば丸煮(どじょうを丸ごと煮たもの)やどじょう汁が一般的でした。
夏になると江戸でもたくさん獲れたどじょうは滋養強壮効果もあり、江戸時代の夏の食べ物として大人気だったのです。
晩夏が旬のフルーツ、梨も伴四郎はよく買ったりもらったりして食べています。江戸の近郊でも梨の栽培が盛んに行われており、美味しい梨が手軽に手に入ったのでしょう。
みずみずしくてついついたくさん食べたくなる梨ですが、「食べすぎるとハラを下すので食べ過ぎ注意」と江戸時代の旅のガイドブックに書かれていたそうです。伴四郎、というか叔父さんは大丈夫だったんでしょうか。
秋の行事といえばお月見。
8月15日の中秋の名月に伴四郎は自分で団子をつくってみんなに振る舞っています。きっと月にもお供えしたのでしょうし、確実に酒盛りしています。それにしても月見団子まで自作するなんて、伴四郎の料理男子レベルが高すぎる。
この日、伴四郎は友人から団子、芋、枝豆をもらっているのですが、中秋の名月は別名「芋名月」とも呼ばれるように団子とともに里芋をお供えしました。
ちなみに江戸時代には9月13日にも「十三夜」といってお月見イベントがあり、こちらは別名「豆名月」と呼ばれるように団子とともに豆をお供えしました。なお「十五夜」と「十三夜」両方のお月見をしてこそ真のお月見といわれ、どちらかしかやらないのは縁起が悪いとされていたんだそうです。
色々なシーンにおいて違いのある江戸と上方ですが、お月見団子の形でも違いがありました。江戸の団子がまん丸なのに対し、上方の団子は里芋のように先が尖った形。伴四郎がつくった団子は果たしてどちらのタイプだったんでしょうか。
現代人がほとんど意識しなくなってしまった秋のイベントのひとつが、9月9日の「重陽の節句」。江戸時代には重要な節句のひとつであり、「菊の節句」とも呼ばれるように菊を飾ったり、菊酒を飲んだりして邪気を払いました。
この日の伴四郎の日記を見てみましょう。
今日は節句なので直助にもらった小豆と小豆の煮汁で赤飯を炊いた。めちゃくちゃ美味しくできた。お祝いにふさわしい魚がないのでしかたなく鰹節でお祝い。夕飯には酒を一合奮発して焼き豆腐を肴に祝杯をあげた。
赤飯と鰹節……めでたいんだかわびしいんだかという感じですが、ささやかでも重陽の節句を祝おうとする伴四郎の気持ちにグッときます。
江戸グルメに名所観光。せっかくならば江戸を満喫したい!
自炊に励み節約を心がけていた伴四郎ですが、外食や江戸観光もよくしています。むしろ外食や観光のために節約しているんじゃないかと思うくらいで歩いています。独身男性がたくさん住んでいた大都市・江戸は外食文化が発達しており、ちょっと歩くだけで美味しいものをたべさせる店がたくさん。伴四郎が江戸へやってきた幕末には、寿司やそば、天ぷらなどといった江戸グルメも出揃っており、さぞかし誘惑だらけだったことでしょう。
江戸での初外食がそばだったことは先述しましたが、ほかにこんなものも食べています。
午後3時頃から麹町へ出かけ、江戸で有名な「おてつ」で名物の牡丹餅と雑煮などを食べ、それから四ツ谷へ行き、こたつの火鉢を買い、美濃和紙などを買って帰った。
冬支度のついでに江戸の名物スイーツ「おてつ牡丹餅」を食べたある秋の日。
「おてつ牡丹餅」というのは、その名の通り牡丹餅なのですが、ちょっと小ぶりサイズで小豆・きな粉・胡麻の3色セットでした。牡丹餅好きの伴四郎も気に入りちょくちょく食べた「おてつ牡丹餅」は、川柳に詠まれるほどの大人気スイーツだったのですが、明治時代に閉店してしまったそうです。
料理男子だった伴四郎はスイーツ男子でもあったようで、牡丹餅のほか汁粉や饅頭、焼き芋、団子など甘い物もよく買い食いしていました。ちなみに江戸は餅菓子が美味しいらしい。
またある日のこと。
向島にある三囲(みめぐり)神社に参詣。向島あたりは茶屋や料理屋や別荘などが多く、その風雅なること表現のしようがない。ひたすらうらやましい。それから牛の御前(牛嶋神社)へお参りに行き、茶店で茶を飲み、桜餅を食べた。(中略)浅草観音へ参詣。ここで浅草餅を食べる。それから浅草通りで寿司などを食べたり祇園豆腐も食べた。
お上りさん度100%な1日です。エンジョイ江戸。
牛嶋神社は狛犬ならぬ狛牛のいる神社で、「墨堤(ぼくてい)」と呼ばれる隅田川の東岸にありました。
このあたりは桜餅発祥の地としても有名で、伴四郎も桜餅を食べています。そのあと浅草では浅草名物の浅草餅も食べています。なにせ徒歩での移動ですからカロリーも消費しますので、甘いものを食べたくなるのでしょう。余談ですが、この浅草餅は現在でも「金龍山浅草餅」として販売されています。ザ・あんころ餅!という感じのあんころ餅です。
浅草は現在も東京を代表する観光地として国内外の観光客でにぎわっていますが、江戸時代も江戸を代表する盛り場として多くの人が集まりました。別の日に浅草へ行った時には見世物小屋をのぞいたりもしています。
みんなで浅草観音へ参詣したあと、おばけの見世物を見物。夕立に見舞われたので近くの店でひと休み。穴子と里芋とタコの甘煮を肴に一杯呑む。それから吉原を見物しに行き、初めて花魁道中を見る。その後、両国へ行き、また見世物を見物(ちょっとエッチなやつ)。帰る際、あまりの人出の多さにみんな散り散りになってしまい別々に帰宅した。
この日もエンジョイしてますね〜。
エンタメエリアとしてにぎわった浅草には見世物小屋も多く、珍しい動物や曲芸、マジック、からくり人形などさまざまなものを楽しむことができました。
伴四郎はこの日、“不夜城・吉原”で初めて花魁道中を見物しましたが、気になる感想は特に書かれておらず逆に気になります。
その後行った両国エリアは芝居小屋や見世物小屋、飲食店が建ち並ぶ人気スポットで、あまりの人の多さに伴四郎一行は散り散りになってしまったようです。7月といえばまだ江戸に来て間もない頃。さぞかしみんな焦ったでしょうね……。地図アプリもない時代ですしね……。無事に帰ってこられてよかったです。
伴四郎はほかにも愛宕山から江戸の町を一望したり、江戸城に登場する大名の行列を見物したり、落語を聞きに行ったり、芝居を見に行ったり、評判の庭園を見に行ったり、虎を見物したりと江戸生活を満喫しています。
伴四郎の日記から垣間見える日常はとても幕末とは思えないほどのほほんとしていますが、江戸の町中で外国人に出会った記述などからは幕末の空気を感じます。
芝で外国人3人に出会う。本当に絵に描かれている通りだった。なにか買い物をしている様子。みんな鼻が高くて、魚の塩物みたいな目の色をしている
魚の塩物みたいな目の色、という表現がユニークです。
伴四郎は初代駐日公使を務めたタウンゼント・ハリス一行が江戸城へ向かうようすを見物に行ったりもしています。この時の見物客は数万人といいますから、まだまだ外国人が珍しかったのでしょう。さらに伴四郎たちは、貿易港として開かれた横浜の見物にわざわざ泊りがけで行ったりもしています。ミーハーな感じがしていいですねぇ。外国人はみんな同じような顔に見える……というのが伴四郎の感想です。あと、横浜には犬が多かったそう。
江戸名所見物や江戸グルメを楽しむ伴四郎ですが、時にハズレの日もありました。
日本橋あたりをうろつき、おはぎを食べる。京橋の手前でかしわ鍋(鶏鍋)を食べようと店に入る。出てきたかしわ鍋が、肉は固いうえにたぶん腐ってた……臭いしパサパサだしひと口食べてやめた。その代わりハマグリ鍋を注文し、それで一杯呑む。帰りに「すいとん」という食べ物を試しに食べてみた。味噌汁へうどんを入れたようなもので、とても武士の食べるようなものではない。帰りに塩さばを買って長屋で口直し。美味しいものを食べに出かけたのにヒドい日だった……。
あんまりお金ないのに、かしわ鍋のリベンジでハマグリ鍋を注文するところに「武士は食わねど高楊枝」を感じます。すいとん、美味しいですけどね。伴四郎の口には合わなかったようです。
美味しいものを食べようと意気込んだ日ほど美味しいものに恵まれないってありますよね。わかる…伴四郎…わかるよ。
江戸との別れと伴四郎のその後
さて、約1年半の江戸での単身赴任を終え、伴四郎はいよいよ国許・和歌山へ帰ります。
冒頭でも触れたように、近年、伴四郎が帰国する直前の8日間の日記が発見されたのですが、暇乞いのあいさつと送別会の日々だったようです。また別れのあいさつに来た人々から餞別をもらったり、国許で待つ家族へのお土産を買ったりしています。なんだか現代のサラリーマンに通じるものがありますね。
出立前夜も大勢の人がお別れにやってきて大宴会が開かれたそう。伴四郎、なかなか人徳のある人物だったのでしょう。
万延2年(1861年)12月3日、早朝に江戸を出発した伴四郎たちは東海道を通り、12月18日、懐かしの和歌山へ帰り着きました。
それから3年2ヶ月後、伴四郎はなんと再び江戸行きを命じられます。
藩主・徳川茂承(もちつぐ)の参勤に叔父・平三とともに伴四郎も従い、2度目の単身赴任です。元治2年(1865年)は徳川家康公250回忌にあたり、日光東照宮で法会が行われました。伴四郎は衣紋方として日光に出張しています。かなりの大仕事だったことでしょう。
江戸に来てから2ヶ月半、伴四郎は突然国許へ帰ることになります。その理由は、第二次長州征伐の征長総督に藩主・茂承が任命され、伴四郎も出陣することになったからです。幕末の動乱とは無関係に思われた伴四郎ですが、やはり無関係ではなかったんですね……。
出陣時にも伴四郎は日記を書いています。
兵庫を出発し、須磨の浦の絶景を見て、須磨寺へ参詣。平敦盛に縁のある品々を見たり、敦盛の塚を参詣した。それから一ノ谷へ行き、義経の「ひよ鳥越えの逆落とし」で有名なひよ鳥越えを見る。名物の敦盛そばを食べ、舞子浜の絶景を見ながら酒を呑んだ。
伴四郎、通常運転がすぎる。
本当に行軍中なのか疑いたくなる平和さ。
しかし9日に広島にある本陣に到着すると、伴四郎も戦場に放り込まれ敵と打ち合いました。さしもの伴四郎も「予の命もこれまで」と覚悟するほどの激戦でしたが幸運にも伴四郎は生き抜き、再び和歌山へと帰りました。
その後、出世した伴四郎は、藩主の生活空間である「奥」で勤務することになったそう。
時代は変わり明治。
伴四郎の没年は不明ですが、明治という新しい時代を伴四郎はきっとのほほんと楽しんだ気がします。そしていつか明治の日々を書き残した伴四郎の日記が発見されることを期待しています。