まずは、山岡鉄舟。
幕臣の超重要人物。歴史的な西郷・勝会談の先鞭をつけた業績は計り知れません。
そんな彼が愛したのは、
銀座木村屋總本店のあんぱん。
あんぱん発祥のお店として有名。
当時売り出したばかりのあんぱんを気に入った山岡鉄舟は、明治天皇が花見をする際にこれを献上。明治天皇も気に入ったことから皇室御用達となり、木村屋のあんぱんは人気が爆発することとなります。
ちなみに明治天皇とあんぱんが出会った4月4日は、今でも「あんぱんの日」になっています。
銀座の木村屋總本店は4Fがレストランになっていますが、そこに掛けられている「木村屋」という書は山岡鉄舟直筆なんです。
木村屋のあんぱん、5個入り893円なり。
山岡鉄舟のお気に入りで、もうひとつ。
海苔といえば、山本海苔店。
朝の食卓の定番、味付け海苔を考案したことでも知られます。
山岡鉄舟は、山本海苔店の味を評して、「この味、世に並ぶ物なし」と賞賛したと伝えられています。
パッケージが山岡鉄舟の書『無双佳品』 54袋入 15,750円なり。
次。
大きなすいか。
フルーツといえば、高級果物の老舗『千疋屋』。
日本最初の果物専門店です。
この千疋屋にスイカを買いにきたのが、
明治維新最大の立役者、西郷隆盛です。
自ら日本橋の千疋屋に現れ、
店の女将に「おっかー、でっけーすいか持って来いよ!」と、注文したそうです。
日本の最高軍事権力者も、けっこう気さくな人ですね。
千疋屋のすいか1玉、10,500円なり。
次。
幕末の志士、山県有朋。
後に内閣総理大臣になりましたが、
幕末当時は兄貴分の高杉晋作とともに、倒幕に向けてだいぶやんちゃをしました。
山県有朋のお抱え料理人だった小島種三郎さんが開業したお店が、
洋食屋の老舗、人形町の小春軒。
店名の小春軒は、種三郎さんの妻「春さん」から名づけられたそうです。
名物は「カツ丼」と「特製盛り合わせライス」。山県有朋好みの味なのかな?
想像が膨らみます。
小春軒のカツ丼 1,200円、特製盛り合わせライス1,300円なり。
ちょっと余談。
結婚式場・宴会場として有名な東京都文京区の椿山荘。
ここ、もともとは山県が国政の重要会議をする場所として整備したのが始まりで、
明治天皇なども訪問されています。
小春軒の初代店主も、もとは椿山荘の料理人でした。
洋食続きで。
西郷隆盛や大久保利通らとともに、
明治維新に重要な貢献を果たした岩倉具視と三条実美。
彼らが支援をして、築地に精養軒ホテルが出来ました。
その支店として出来たのが、
ハヤシライスでお馴染みの上野精養軒になります。
当時のお店。
いわずと知れた日本の洋食の草分け。
夏目漱石の『三四郎』や森鴎外の『青年』のなかでも登場します。剛腕政治家・岩倉具視も、きっとこのハヤシライスを愛したことでしょう。
※築地の精養軒は関東大震災で焼失しています。
上野精養軒のハヤシライス 1,360円なり(サラダ付)。
さて、山岡鉄舟の働きにより実現した幕末のターニングポイントといえば、新政府軍代表・西郷隆盛と徳川幕府代表・勝海舟の会談。
西から進軍してきた新政府軍は、いよいよ徳川幕府の本丸・江戸城まで、その標的にします。「抵抗を続けると、江戸城を総攻撃するけどどうするの?」
いわゆる、江戸城無血開城の話合いです。
このヒリヒリした話し合いでも、やっぱり人間。腹は減るので、途中で寿司の出前を取っています。
この時に注文を受けたお店が、新富町の蛇の目鮨。
ちなみに西郷さんは巻物を食ったそうです。もぐもぐ。
今でも営業されてるので、無血開城気分で巻物を食べるのも乙かもしれません。
余談ですが、コンビニでもよく売られているいなり寿司と巻き寿司のセットを「助六寿司」と名付けたのは、このお店の先代です。
蛇の目鮨 ランチにぎり900円なり。
大隈重信。
幕末は志士として奮戦。明治後は政治家・教育者として多大な功績を残しました。
彼が創立した早稲田大学の近くにある、蕎麦屋『三朝庵』。
卵とじかつ丼、カレー南蛮の発祥としても知られていますが、
店名の発案者が大隈重信自身だとか。
1920年頃に、この店でカツ丼が発案されたのですが、当時80歳ぐらいの大隈重信にはちょっとキツかったかも。
でも、一口ぐらいは食べたかもしれません。
三朝庵の卵とじかつ丼790円なり。
最後の将軍・徳川慶喜やその前の将軍・徳川家茂などは、お菓子好きで知られました。
どちらも好きだったのが、
今も大人気のとらやの和菓子。
とらやの台帳には、将軍たちからの注文記録が残されているそうです。
将軍・徳川家茂から孝明天皇に贈ったのが、ようかん「夜の梅」
ちなみに、家茂は甘いものが好き過ぎてほとんどの歯が虫歯だったそうです。
この人、20歳で亡くなってしまったのですが、一説には虫歯による
栄養失調・体力低下が原因ともいわれています。
みんな、歯磨けよ!
とらやのようかん「夜の梅」2,835円〜なり。
最後に。
明治という時代を迎えて、江戸の和菓子屋は次々と店を閉めたそうです。
なぜか?
長年の得意先であった徳川家に申し訳なくて、江戸に入ってきた薩摩・長州藩などに品物を売れないという、和菓子屋たちの思いがあったからなんです。
最中が人気だった本郷の『壺屋』という和菓子屋も、 そんな思いから、一度店を閉めました。
ところが、付き合いのあった勝海舟から、こんなことを言われたそうです。
「新しい時代になって、皆、壺屋のお菓子を食べたがっている。店を再開するように。」 |
新しい時代は苦しいこともある。そんな時こそ、甘い物で元気を出したいんじゃないか。
そんな意味が込められているような気がします。
店を再び開けた壺屋は現在も営業しています。
店内には、勝海舟直筆の書があります。
右から読んで
「神逸気旺 = かみいつにして、きさかん」
意味は「神頼みではなく、自らの気力が大切である」
これは、菓子屋だけに贈った言葉というよりも、菓子屋のお客さん=新しい時代を迎えた庶民みんなにむけた言葉のような気がします。
名物・壷形最中、180円なり(粒あん)。