徳川幕府最後の将軍といえば、徳川慶喜。
りりしいです。
在位わずか一年で幕府が崩壊。死罪必至でしたが、勝海舟らの交渉でなんとか免れました。さて、その後、慶喜は明治〜大正時代にどんな人生を送っていたのか?
最後の将軍は趣味に生きました。
本当に多彩な趣味を持っていたのですが、たとえば、写真撮影。
カメラを持って、よく屋外に撮影に出かけたそうです。実際に徳川慶喜が撮影した写真は現代にも残っています。たとえばこれ↓
けっこう熱心で、当時人気だった写真雑誌『華影』にもたびたび投稿していましたが、なかなか採用されなかったそうです。
そして、油絵。慶喜の腕前はこちら。
結構上手いように見えるが、どうなんでしょう!?
そして、ちょっと変わった趣味では、慶喜はなんでも顕微鏡で観察するのが好きでした。
ある日、彼は大好物のきな粉を拡大してみました。
すると、保存状態が悪かったのか、拡大したきな粉には虫がいっぱい。
それ以来慶喜は、大好物のきな粉を口にすることは出来なくなったそうです。
最後の将軍さん、何してんですか…。
アウトドアも大好きだったようです。
毎日やってたのが弓道。
鉄砲携えての狩猟。
イギリス紳士っぽいですね。(謎
そして、サイクリング。当時まだ珍しい自転車を乗り回していました。
ダルマ型自転車(オーディナリー型自転車)に乗る最後の将軍。
狩猟のときと同じ帽子ですね。お気に入りでしょうか?運動のために、しょっちゅう市中を乗り回していたそうです。(明治20年2月5日付『静岡大務新聞』より)
相当ハイカラです。
サイクリング中に美人に気を取られ看板に激突した、なんてエピソードも残っています。
手裏剣。
ほかにも、釣り、手芸、碁、将棋、能楽、放鷹、打毬、飯盒(はんごう)による飯炊きなども好んでやっていたらしい。
また、女性が好きで正室に加え側室2人と一緒に住んでいました(!)
女性関係も奔放でエンジョイしていたようです。(明治維新前はさらに側室や妾がいました)
子供にも恵まれ、10男11女を授かっています。
自由気ままに生きる最後の将軍。
そんな徳川慶喜の生き方を快く思わない人たちもいました。
幕臣として箱館戦争に参戦し、新政府軍に最後まで抵抗した老中・板倉勝静。
彼は明治に入りこんなことを言っています。
「慶喜と行動を共にしたことを後悔している」
ただ、一方でこんなエピソードも。
日本資本主義の父といわれる慶喜の家臣・渋沢栄一。
彼は2年間のヨーロッパ留学から帰国すると、慶喜が隠居している静岡藩から“官”として仕えるよう命令を受けました。
渋沢には、ヨーロッパで得た知識を“民”として自由に生かしたい思いがあり、この命令を断ります。
部下からのつれない返事。でも、慶喜はこんな言葉を掛けて送り出したそうです。
「これからはお前の道を行きなさい」
もしかしたら、自らがそれを実践して家臣の気持ちを楽にしていた、のかもしれません。
最後に、徳川慶喜の子孫の話を。
慶喜のひ孫、徳川慶朝(とくがわよしとも)さん。
母方を通じて会津藩主・松平容保のひ孫でもあります。
徳川慶朝さんはプロのカメラマンとして、慶喜が大好きだけど上達しなかった写真の世界で活躍しています。
そして、ライフワークとして徳川家伝来の遺跡や歴史的建造物を撮影したり、慶喜が撮影した写真を書籍化して紹介したりしています。