• 更新日:2019年10月20日
  • 公開日:2017年9月24日


今も愛される元祖ヒーロー

『日本武尊・川上梟師』(1883年/明治16年)(『芳年武者无類』より、月岡芳年 画)
『日本武尊・川上梟師』(1883年/明治16年)
今にも短剣をノドに突きたてようかという緊迫したシーンですが、襲っている人物の麗しさと灯りに照らされた部分のパステルな感じ、さらに飾られた白梅の存在も加わってなんだか美しい。

襲っているのは誰もがその名を知る人物、ヤマトタケルです。漢字で書くと「日本武尊」(『日本書紀』)とか「倭建命」(『古事記』)となります。

ヤマトタケルは古代日本で誕生したヒーローで、景行天皇の皇子。あまりに強すぎるがゆえに父から疎まれ、父の命令により各地の蛮族や荒ぶる神々の平定に奔走、ついに病に倒れ命を落としました。その後、ヤマトタケルの墓から白鳥が飛び立ちどこかへ飛んで行ったそうな。この有名なヤマトタケル伝説は『古事記』をベースにしたもので『日本書紀』バージョンはまただいぶ違います。

月岡芳年が描いているのはヤマトタケルの逸話のなかでも特に有名なクマソ(熊襲)討伐の物語。

元になったエピソードはこれ!

父・景行天皇から九州のクマソ討伐を命じられた「小碓命(おうすのみこと)」(ヤマトタケルノミコトを名乗る以前の名)は、わずかな供を連れ九州へ赴く。まだ16歳だった小碓命は、クマソタケル兄弟の宴席に美少女の姿に化けて潜入、酔いが深くなったところを襲い兄弟を刺殺した。その武勇に感嘆したクマソ弟は死の間際、小碓命に「大倭(やまと)の国の勇者」を意味する「ヤマトタケル」の称号を与える。ここに「日本武尊」が誕生したのである。

あらためて唸る、ヒーロー譚としての完成度の高さ。少年主人公、父との確執、美少女に変装、敵から認められる、などいまでもよくみる要素ばかり。

芳年の描く日本武尊も初々しさと荒々しさが絶妙にミックスしていて最高です。

ヤマトタケルのクマソ(熊襲)討伐が描かれた浮世絵(『芳年武者无類』より、月岡芳年 画)
クマソさんの眉毛が毛虫みたいにモッフモフ。
カッと開かれた足の指に死に瀕した者の断末魔が現れているようです。

ヤマトタケルに討伐されたクマソ(熊襲)の足(『芳年武者无類』より、月岡芳年 画)

次も昔話でおなじみのヒーロー。


キミ、うちで働かない?

『阪田公時・源頼光』(1886年/明治19年)(『芳年武者无類』より、月岡芳年 画)
『阪田公時・源頼光』(1886年/明治19年)
「山に狩りにやってきたら、ヤバイ人見つけたどうしよう」みたいな表情してますが全然違います。

キレイな方が妖怪退治で有名な源頼光さんで、ムッサリしている方が金太郎さんです。そう、あの昔話で有名な金太郎。でも芳年のリアルすぎる(?)金太郎は、ちびっ子が見たら泣き出しそうな感じがします。爪がすごい伸びているのがリアルだし、なにせケモノっぽさが強すぎる。

金太郎が描かれた浮世絵(『芳年武者无類』より、月岡芳年 画)
拡大した部分だけ見るととても人間のものとは思えない。
元になったエピソードはこれ!

足柄山でクマと相撲したり楽しく暮らしていた金太郎。ある日、山にやってきた源頼光さんに「キミ、なんかすごい力持ちだね。どう?うちで働かない?」とスカウトされます。

山を降りた金太郎は「坂田金時(さかたのきんとき)」と名を改め、頼光の家臣となりました。その後、メキメキと力を発揮し「頼光四天王」のひとりに数えられるまでになり、大江山の酒呑童子や土蜘蛛などの大妖怪退治で大活躍したのでした。めでたし、めでたし。

芳年が描いているのはまさにこのスカウト場面なのですが、坂田金時という武士が実在したかどうかは定かではないようです。

余談ですが、金太郎の物語がメジャーになったのは江戸時代だそうで、金太郎を描いた絵画作品もたくさん生まれました。金太郎の母親といわれる山姥(やまんば)との2ショットもたくさんあります。また、「金太郎=元気モリモリの男の子」というイメージから端午の節句の飾りとして金太郎人形を飾るという風習も生まれました。

芳年は晩年の傑作『月百姿』でも金太郎を描いているのですが、そっちは「いかにも」なかわいい金太郎クンです。

『金時山の月』(『月百姿』シリーズ、作・月岡芳年)
チェックの腹掛けがおしゃれな金太郎クン。お目目もくりっくり、手足がムッチムチで愛くるしい。(『金時山の月』 1890年より)

アッチーーー!!

『大臣武内宿弥』(1883年/明治16年)(『芳年武者无類』より、月岡芳年 画)
『大臣武内宿弥』(1883年/明治16年)
グラグラと煮え立つ釜のなかに白ひげのおじいちゃんが手を突っ込んでます。熱くないわけないですが、その表情は冷静そのもの。

一方、おじいちゃんの前に手を突っ込んだんでしょう。黒ひげのオジさん、真っ赤にただれた手をつかみ、苦悶しています。

浮世絵『大臣武内宿弥』の拡大画像(『芳年武者无類』より、月岡芳年 画)
この顔である。フンガー!!
どうでもいいですが、着物の柄がファンキーでかわいいです。原宿系。

悶えているオジさんに目がいってしまいますが、この絵の主役は白ひげのおじいさん。彼は武内宿弥(たけのうち すくね)という古代日本の伝説的人物で、300歳もの長寿を保ち5人の天皇に仕えたとか。

で、2人でなにをしているのかといいますと、神聖なる裁判の真っ最中なのです。

元になったエピソードはこれ!

古代日本で実際に行われていた「盟神探湯(くがたち)」という裁判方法。ジャッジを下すのは神様。裁判方法はシンプルかつ過激。神様に潔白を誓ったあとグラグラと煮え立つ湯に手を突っこみ、ヤケドしなかったらジャスティス! ヤケドしたらギルティ! という明瞭さ。

普通に考えればみんなギルティになってしまいますが、この絵の主人公・武内宿弥はヤケドせず身の潔白を証明したと『日本書紀』にある。

そんな鋼の皮膚を持つ武内宿弥は、明治から昭和にかけて紙幣の肖像画に採用されたスゴイ人でもあります。

武内宿弥が描かれた1円紙幣(1889年/明治22年)
1889年(明治22年)に発行された1円紙幣。武内宿弥が描かれている。画像引用元:wikipedia

ありがたみがスゴイ

『遠江守北条時政』(1883年/明治16年)(『芳年武者无類』より、月岡芳年 画)
『遠江守北条時政』(1883年/明治16年)
相変わらずファンタジー。大事なことなので重ねていいますが、これらは明治の作品です。芳年が現代に生きていて、ダークファンタジーやゲームのキャラクターデザインをやっていたら、きっと評判になっていたと思います。

こちらは北条氏の有名な家紋「三つ鱗(ミツウロコ)」の由来譚を描いた1枚です。この家紋。

三つ鱗(読み:ミツウロコ)は北条氏の家紋

ちなみに、戦国武将・北条早雲から始まる関東の覇者・小田原北条氏(後北条氏)が使用した「三つ鱗」と鎌倉幕府の執権・北条氏が使用した「三つ鱗」は似ているけどちょっと違います。

鎌倉北条氏の「三つ鱗」は正三角形の組み合わせ、小田原北条氏の「三つ鱗」は二等辺三角形の組み合わせ。なお、小田原北条氏は鎌倉北条氏の権威にあやかって家紋を真似したともいわれています。

芳年が描いているのは鎌倉北条氏の「三つ鱗」由来譚。それはこんな伝説です。

元になったエピソードはこれ!

むかし、むかし。鎌倉幕府を開いた源頼朝の妻である北条政子の父・北条時政は、江ノ島に赴き北条氏の繁栄を弁天様にお祈りした。祈り続けること37日目、願いが通じたのか時政の前に美しい弁天様が姿を現し、「神の意志に背くことなければお前の子孫は末長く日本の主となる」というありがたいお告げを授けた。

するとたちまち弁天様は見上げるほどの大蛇(竜とも)に姿を変え海中に姿を消す。あとにキラリと光るものを見つけた時政がそれを拾い上げると3枚のウロコだった。時政は願いは聞き入れられたと喜び、3枚のウロコを持ち帰ると家紋にしたのである。

「三つ鱗」の家紋にはそんなドラマティックな由来があったんですね。でも鎌倉北条氏は滅んじゃうんです……末長く続かなかった。

画中でもよく見るとちゃんとウロコ拾ってます。

北条時政が描かれた浮世絵(『芳年武者无類』より、月岡芳年 画)
うやうやしくウロコをおしいただくの図。
次も北条氏に関する有名エピソード。

教科書にも載った感動のストーリー

『相模守北条最明寺入道時頼』(1883年/明治16年)(『芳年武者无類』より、月岡芳年 画)
『相模守北条最明寺入道時頼』(1883年/明治16年)
一面の銀世界。

雪があつく積もる庭に出て男が鉢植えに鉈を振るおうというところ。白に塗りつぶされた空間にあって男の着物の色がやけにくっきりと浮かび上がって見えます。穴だらけの破れ障子からは僧侶が顔をのぞかせ、男のようすを見つめている。

これは『鉢木(はちのき)』という能や浄瑠璃、歌舞伎などで有名になった物語を描いた1枚で、戦前の尋常小学校の教科書にも載っていたほどよく知られていました。

どんなストーリーかというとこんな感じ。

元になったエピソードはこれ!

時は鎌倉時代。ある大雪の夕暮れ、下野国(現・栃木県)を旅していたひとりの僧が一軒の家を訪れ一夜の宿を求める。その家の主人は僧を見かねて家に招き入れ「見ての通りの貧乏なのでなにもできませんが……」と恐縮しながらも誠心誠意のもてなしをし、やがて「自分は佐野常世という武士である」と身の上話を語り始める。

話すうち囲炉裏の火が消えかけるが貧乏ゆえに薪もない。家の主人は庭に下りると立派な鉢植えの木に鉈を振るい、火にくべてしまった。僧が驚いていると「今はこんなに落ちぶれていますが私も鎌倉武士のはしくれ。鎧と薙刀(なぎなた)と馬は大事のために大切にしていますが、鉢植えの木は今の自分には無用のもの。お気になさらないでください」という。

年が明け、鎌倉の幕府から緊急収集のお触れが出た。佐野常世もボロボロの鎧をまといヤセ馬にまたがり馳せ参じた。すると、もと執権の北条時頼から呼び出しがかかる。時頼の御前で恐縮し平伏する佐野常世に時頼は語りかける。

「あの雪の日、お前の家に泊めてもらった僧は私だ。あの日の言葉通り鎌倉まで馳せ参じてくれたその心意気、うれしく思うぞ」

そして、時頼は佐野常世に新たに所領を与えたのだった。それはあの晩、佐野常世が時頼のために薪にした松、梅、桜の鉢植えにちなんだ地名を持つ土地であった。

現代において自己犠牲や滅私奉公がしっくりこない部分があるかもしれませんが、基本いい話です。

全然関係ないですが、囲炉裏にあたる時頼(僧スタイル)さんの手足が赤くなっていて“かじかんでいる感”がすごいので注目。

囲炉裏で手足を暖める北条時頼(『芳年武者无類』より、月岡芳年 画)
つめたそー。

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