死にぎわこそ美しく

『新中納言平知盛』(1885年/明治18年)(『芳年武者无類』より、月岡芳年 画)
『新中納言平知盛』(1885年/明治18年)
見目麗しい武士がホウキを手に掃除をしています。その傍らには泣き崩れる女性の姿があり、なんとも不思議な絵。

芳年が描いたのは、平清盛の四男で平家一門随一の知将として知られた平知盛(とももり)の死の直前の姿。

元になったエピソードはこれ!

源平合戦の最終局面「壇ノ浦の戦い」で総指揮官を務めた知盛でしたが、平家敗北を悟ると自害を決意します。そして「立つ鳥跡を濁さず」とでもいうように幼い安徳天皇を乗せた御座船の掃除をしたそうな。敵に見苦しい姿を見られたくなかったのでしょう。

安徳天皇や清盛の正室らが手を取り合い海中へ消えたのを見届けると知盛も「見るべきほどのことをば見た」と海へ飛び込んだのでした。飛び込む際にはけして浮かび上がることのないよう、重しとして錨を背負ったとも鎧を二枚着たともいわれている。

平家一門の貴公子としての矜持を感じる最期にしびれます。

知盛が錨(イカリ)を背負って海へ飛び込むシーンは浮世絵にもよく描かれているのですが、掃除シーンをチョイスする着想が一癖あって面白い。

芳年は『新形三十六怪撰』でも知盛を描いているのですが、そちらは怨霊の姿。

『大物之浦ニ霊平知盛海上ニ出現之図』(1891年/明治24年)(『新形三十六怪撰』より、月岡芳年 画)
『大物之浦ニ霊平知盛海上ニ出現之図』(1891年/明治24年)
イケメン怨霊ですね。

海の藻屑となった知盛が、その後、怨霊となって源義経一行の前に現れたという伝説を描いています。このお話もかなり有名だったようで、いろんな絵師が同じシーンを描いているのですが、葛飾北斎の弟子・葛飾北為(ほくい)版がカッコイイので紹介させてください。

『摂州大物浦平家怨霊顕る図』(葛飾北為 画)
稲妻のビカビカ感がドラマティック!(『摂州大物浦平家怨霊顕る図』)

「もう悪いことしちゃダメだかんね!」「へーい」

『鎮西八郎源為朝』(『芳年武者无類』より、月岡芳年 画)
『鎮西八郎源為朝』
見るからにイカツイ武士が弓を手にニラミをきかせています。その脇には毛深い人(?)たちが情けない顔でうずくまっています。ちょっと不満げにも見える表情がおもしろい。

さて、こちらのコワモテ武士は「平安時代ナンバーワン暴れん坊」として名を馳せた源為朝(ためとも)。2mを超えたともいわれる巨躯の持ち主で、その巨体から生み出すパワーは百人力、5人がかりでも引くことのできない強弓をひとりで軽々引いたというから凄まじい。ちなみに鎌倉幕府を開いた源頼朝の叔父さんにあたります(頼朝の父・義朝の弟)。

豪壮無比の猛将・為朝は若い頃からエネルギーが余りまくっていたようで、父に勘当され飛ばされた九州では現地勢力をボッコボコに叩きのめし一大勢力を作り上げ、その後に起きた「保元の乱」では兄・義朝と敵味方に分かれて激闘を繰り広げました。

結局、敗戦し伊豆に流されたのですが、配流先の伊豆でも暴れまくって勢力を広げ伊豆諸島を支配下に置いたというから、これは並みの暴れん坊ではない。

エピソードに事欠かない為朝にはいろんな伝説が残されています。たとえば、鬼ヶ島へ行って大鬼を連れ帰ってきたとか、琉球に渡って王朝を建国したとか……。

まるでマンガの主人公のような為朝さんはフィクションの世界でも人気で、特に『南総里見八犬伝』の作者として知られる滝沢馬琴の小説『鎮説弓張月(ちんせつゆみはりづき)』は大ヒットを飛ばしました。

その小説のなかに、為朝が配流先の八丈島で疱瘡神(痘鬼)を退治したという話が登場するのですが、そこから「為朝=疱瘡除けの神さま」という信仰も生まれ、「疱瘡神を退治する為朝の絵」がたくさんつくられました。

人間離れした為朝の強さをもって疱瘡を退治してもらいたい、という願いが為朝の絵には込められていたのです。

ついでに芳年の師匠・歌川国芳の描く為朝がカッコイイので紹介しますね。

『本朝武優鏡』「源為朝」(歌川国芳 画)
デフォルメされた筋肉を誇示するようなポーズ、翻る着物、手にした弓のダイナミックな配置、どれをとってもカッコイイ(『本朝武優鏡』「源為朝」)

月に願いを

『山中鹿之助幸盛』(1883年/明治16年)(『芳年武者无類』より、月岡芳年 画)
『山中鹿之助幸盛』(1883年/明治16年)
細い月に向かって静かに手を合わせ祈りを捧げる武士。とても静かでどこか神聖な空気を感じさせる1枚です。

月に祈る武士は戦国時代の武将・山中幸盛。二つ名は「山陰の麒麟児」。

「山中鹿介(しかのすけ)」として時代小説や時代劇でも人気の人物です。鹿介が人気の理由は、その悲劇的末路と逆境にめげない一途さにあるでしょう。

元になったエピソードはこれ!

鹿介は出雲国尼子氏に代々仕える家に生まれ、その一生を尼子の御家のために捧げました。中国地方といえば、戦国時代トップクラスの知略を誇りたった一代で中国地方を制覇した毛利元就(もとなり)がいますが、尼子家もその毛利によって敗れ去り降伏しました。

その後、鹿介は尼子の御家再興のために流浪を重ね、勢いに乗る織田信長に協力を仰ぐなどあらゆる手を使って悲願を成就すべく奔走しました。しかし、結果的に尼子家再興は叶わず、鹿介は戦いのなかで短い生涯を終えました。

めげない、まげない、くじけないーーそんな執念の人、鹿介の名言として有名なのがこれ。

「我に七難八苦を与え給え」

三日月に向かって願ったこのシーンは講談などで知られるようになりました。芳年が描いているのもまさにこのシーン。

主従、手を取り合って大ジャンプ

『船田入道義昌・左中将新田義貞』(『芳年武者无類』より、月岡芳年 画)
『船田入道義昌・左中将新田義貞』
いっせーの、で大ジャンプ!!

決死のジャンプをするこちらの2人は鎌倉時代末期の武将・新田義貞(にったよしさだ)とその忠臣・船田義昌(ふなだよしまさ)。この大ジャンプシーンは、歴史小説『太平記』に書かれた名場面のひとつ。

元になったエピソードはこれ!

新田義貞は足利尊氏とともに鎌倉幕府を倒した人物で、ともに後醍醐天皇による「建武の新政」を樹立した立役者。しかしその後、尊氏が新政府に反旗を翻すと、これを鎮圧する討伐軍の総大将として尊氏と激戦を繰り広げました。

尊氏に大敗し敗走する新田義貞と船田義昌の主従は、手と手を取り合って荒れ狂う天竜川を飛び越えた。結局、2人とも戦死してしまうが、主従の絆と新政府に対する忠誠心は多くの人々に感動を与えた。

新田義貞と船田義昌の足(『芳年武者无類』より、月岡芳年 画)
足のおそろい感に主従の一心一体っぷりが見えるよう。
南北朝つながりで。

その船、待ったー!!!

『日野隅若丸』(1885年/明治18年)(『芳年武者无類』より、月岡芳年 画)
『日野隅若丸』(1885年/明治18年)
まずこの波の表現!盛り上がりがなんとも特徴的で目をひきます。

人物や風景がリアルタッチなのに背景の下半分が抽象的なデザインになっているのもユニークです。

さて状況説明を。

この絵のタイトルになっている「日野隅若丸(ひのくまわかまる)」はピンクの着物の少年のほう。後醍醐天皇の南朝に仕えた公卿で、日野邦光(くにみつ)という名前でした。「くまわかまる」というのは幼名で、「阿新丸」と表記したらしい。

元になったエピソードはこれ!

隅若丸少年の父は後醍醐天皇の寵臣で、鎌倉幕府倒幕計画が露見した際に後醍醐天皇とともに佐渡島に流されました。まだ13歳だった隅若丸少年はこっそり佐渡へ渡り、父に面会しようとするのですが、願い叶う前に父は鎌倉幕府の手の者に殺されてしまいます。

隅若丸少年は仇討ちを決意すると、夜陰に乗じて仇討ちを決行、本願を遂げます。その後、隈若丸少年は追っ手に追われながらも山伏の協力を得て佐渡島を脱出した。

この作品は隈若丸少年の脱出直前のシーンを描いたものと思われます。『太平記』に描かれた隅若丸少年による仇討ちの物語は古くから人気が高かったそうです。

またもや南北朝つながりで。

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投稿日: 投稿日:カテゴリ:カテゴリー 浮世絵, 芸術

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