年齢で見る幕末志士
66歳で亡くなった幕末志士・偉人
現在7人が登録されています。
該当する幕末志士・偉人
亡くなった年齢でまとめることで意外な発見があります。
板倉勝静
いたくらかつきよ
- 出身
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徳川幕府
- 生年月日
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1823年2月14日
- 没年月日
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1889年4月6日
- 年齢
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満66歳没
幕末における、奏者番・寺社奉行・老中首座(筆頭)。備中聖人とよばれた山田方谷をブレーンに置く。第14代将軍・徳川家茂のときに老中となり、攘夷決行の勅命処理に苦慮。また、第15代将軍・徳川慶喜のときには大政奉還の実現などに尽力。江戸城明け渡し後に幽閉となるが、大鳥圭介がこれを救出。ともに、戊辰戦争の戦火の中、会津・仙台・函館(箱館)五稜郭で、新政府軍相手に奮戦した。備中松山藩の第7代藩主。 (続きをみる)
福沢諭吉
ふくざわゆきち
- 出身
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中津藩
- 生年月日
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1835年1月10日
- 没年月日
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1901年2月3日
- 年齢
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満66歳没
幕臣。その生涯を通じた活躍は、あまりにも多岐にわたる。蘭学者、自然科学者、著述家、啓蒙思想家、新聞時事新報の創刊・発行者、教育者、明六社発起人、慶應義塾創設者。適塾出身でもある。旧字体では福澤と書く。 (続きをみる)
野津道貫
のづみちつら
- 出身
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薩摩藩
- 生年月日
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1841年12月17日
- 没年月日
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1908年10月18日
- 年齢
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満66歳没
薩摩藩士。軍人。野津鎮雄は実兄。陸軍の歴史に残る名将。戊辰戦争(鳥羽伏見の戦い、会津戦争、函館戦争)、西南戦争、日清戦争、日露戦争といった、幕末から明治に至る戦争でことごとく比類なき活躍をみせる。 (続きをみる)
川路聖謨
かわじとしあきら
- 出身
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徳川幕府
- 生年月日
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1801年6月6日
- 没年月日
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1868年4月7日
- 年齢
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満66歳没
幕末の名官吏として名高い。ペリー来航時、開国のため国書の受理を主張する。
外交では日露和親条約の交渉、アメリカ総領事はリスの応接掛を務めるなど大いに活躍する。
新政府軍による江戸総攻撃の予定日に、自ら命を絶つ。割腹のうえ、ピストルで喉を撃ちぬいた。 (続きをみる)
おうの
おうの
- 出身
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長州藩
- 生年月日
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1843年0月0日
- 没年月日
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1909年8月7日
- 年齢
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満66歳没
萩城下の油商の娘といわれているが、水戸浪士の娘という説もある。
下関で芸妓をしていたところ、高杉晋作と出会い妾となる。
高杉が長州から逃避行をする際、正妻・雅子ではなくおうのを連れて行ったといわれ、高杉から溺愛されていたことがわかる。
高杉が死去した後は、他の男と浮き名を流し高杉の名を落とすことがないよう、長州藩士により半ば強制的に出家させられた。
梅処尼と称し、生涯にわたり東行庵で高杉の菩提を弔った。 (続きをみる)
野村靖
のむらやすし
- 出身
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長州藩
- 生年月日
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1842年9月10日
- 没年月日
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1909年1月24日
- 年齢
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満66歳没
吉田松陰門下の松門四天王のひとり・入江九一の弟。松門四天王はほか、久坂玄瑞・高杉晋作・吉田稔麿)。
明治維新後は岩倉使節団の一員として渡欧。神奈川県令・駅逓総監・逓信次官を歴任し、第2次伊藤内閣では内務大臣を、第2次松方内閣では逓信大臣を務めた。 (続きをみる)
井上勝
いのうえまさる
- 出身
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長州藩
- 生年月日
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1843年8月25日
- 没年月日
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1910年8月2日
- 年齢
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満66歳没
通称を弥吉。
長州藩の命により、伊藤博文、井上馨らとともに藩士5人(長州ファイブ)でイギリスに留学。
伊藤博文・井上馨は、長州藩と諸外国の関係悪化に危機感をおぼえ緊急帰国するが、井上はそのまま残り、約5年間、鉄道技術・鉱山技術を学ぶ。
帰国後は明治新政府にて、鉄道庁長官として日本の鉄道発展に尽力。日本の鉄道の父と呼ばれる。
主な功績に、新橋駅(品川駅) - 横浜駅間の開通、東海道線、日本鉄道会社 副社長として東京〜青森間の施設事業。 (続きをみる)