年齢で見る幕末志士
59歳で亡くなった幕末志士・偉人
現在14人が登録されています。
該当する幕末志士・偉人
亡くなった年齢でまとめることで意外な発見があります。
明治天皇
めいじてんのう
- 出身
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朝廷
- 生年月日
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1852年11月3日
- 没年月日
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1912年7月30日
- 年齢
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満59歳没
日本の第122代天皇。孝明天皇の第2皇子。在位は1867年〜1912年。16歳で即位。明治大帝、明治聖帝、睦仁大帝とも呼ばれた。即位中は、大政奉還や王政復古、大日本帝国憲法の制定など、近代日本の道筋をつける重要な出来事が重なった。 (続きをみる)
黒田清隆
くろだきよたか
- 出身
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薩摩藩
- 生年月日
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1840年11月9日
- 没年月日
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1900年8月23日
- 年齢
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満59歳没
薩摩藩士。通称は黒田了介。軍人であり政治家。第2代内閣総理大臣。維新前は、主に軍事で目ざましい活躍をみせる。戊辰戦争では、薩摩の代表として、長州の山県有朋とともに、北越を平定。函館でも、長州の山田顕義(山田市之允)とともに、榎本武揚らを圧倒する。戦時中の榎本との敵味方を越えた交流、および戦後の榎本の助命嘆願なども有名な逸話である。(榎本の助命嘆願のため、丸坊主にもなった)。明治維新後は、北海道開拓使となる。明治6年の征韓論では、内政重視の考えから、西郷と対立。その後おこった西南戦争(明治10年)では、西郷はじめ元同士を討つため、故郷の薩摩に進軍。反乱軍を鎮圧した。大久保利通が暗殺後は、薩... (続きをみる)
西郷従道
さいごうつぐみち
- 出身
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薩摩藩
- 生年月日
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1843年6月1日
- 没年月日
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1902年7月18日
- 年齢
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満59歳没
薩摩藩士。西郷隆盛の弟。正式な読みは、さいごうじゅうどう。軍人であり政治家。多くの薩摩人が後を追った征韓論を巡る西郷隆盛の下野では、兄である隆盛を追わず新政府に留まった。明治10年の西南戦争においても、陸軍卿代理をつとめ東京から動くことはなかった。兄の西郷隆盛と同じく将器の才があり、海軍大臣時代には、部下である山本権兵衛に自由に腕を振るわせた。日清・日露戦争での海軍の歴史的勝利は、西郷・山本の海軍補強が土台であったことは疑いない。 (続きをみる)
No
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椋梨藤太
むくなしとうた
- 出身
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長州藩
- 生年月日
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1806年0月0日
- 没年月日
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1865年7月19日
- 年齢
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満59歳没
長州藩士。幕末の重臣。保守佐幕派として、改革派である周布政之助、桂小五郎、久坂玄瑞らと常に政権を争う。禁門の変や第一次長州征伐など過激な攘夷行動への反動が起こり、長州藩自体の存亡が問われ始めると、保守派として実権を握り、政敵である周布を自害に追い込む。しかし、高杉晋作と伊藤博文による再度の盛り返しで失脚。 (続きをみる)
横井小楠
よこいしょうなん
- 出身
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熊本藩
- 生年月日
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1809年9月22日
- 没年月日
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1869年2月15日
- 年齢
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満59歳没
熊本藩士。のち、松平春嶽の政治顧問として、福井藩の藩政改革に取り組む。その実績を買われ、幕政改革にも携わる。幕政改革の道筋を示した「国是七条」を建議するなど、国家構想といった大きな絵柄を描くことの出来る幕末随一のプランナー。
坂本龍馬が師匠と仰いでいたことでも知られる。 (続きをみる)
亀井茲監
かめいこれみ
- 出身
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津和野藩
- 生年月日
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1825年11月14日
- 没年月日
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1885年3月18日
- 年齢
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満59歳没
石見津和野藩の第11代藩主。最後の藩主である。地理的に隣に位置する長州藩とは親交が深いため、佐幕派と尊王派の間で政治的姿勢が揺れ動いた。長州征伐をきっかけに、長州藩寄りとなる。 (続きをみる)
No
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浅野長訓
あさのながみち
- 出身
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広島藩
- 生年月日
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1812年9月4日
- 没年月日
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1872年8月29日
- 年齢
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満59歳没
広島藩第11代藩主。野村帯刀と辻将曹を家老として登用。藩政改革を断行する。また、洋式軍制を導入するなど、時勢への洞察力も持ち合わせていた。 (続きをみる)
堀田正倫
ほったまさとも
- 出身
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佐倉藩
- 生年月日
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1851年12月28日
- 没年月日
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1911年1月11日
- 年齢
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満59歳没
佐倉藩第6代藩主。最後の藩主である。鳥羽伏見の戦いの後、徳川慶喜の助命/徳川家存続を嘆願。明治新政府に軟禁されてしまう。このため、佐倉藩は藩主不在のまま、戊辰戦争を迎えた。 (続きをみる)
徳川慶勝
とくがわよしかつ
- 出身
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尾張藩
- 生年月日
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1824年4月14日
- 没年月日
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1883年8月1日
- 年齢
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満59歳没
尾張藩14代・17代藩主。高須四兄弟の一人(ほか、尾張藩15代藩主・徳川茂徳、会津藩主・松平容保、桑名藩主・松平定敬)。尊王攘夷を思想のベースとして、内政では、倹約による財政改革を行う。外政では、攘夷の立場から井伊直弼が調印した日米修好通商条約に抗議。政争に敗れ、安政の大獄の対象者となり、隠居謹慎となる。写真機に強い興味を持ち、自ら撮影した写真は今も1000点近く残され、歴史的に貴重な資料となっている。 (続きをみる)
有栖川宮熾仁親王
ありすがわのみやたるひとしんのう
- 出身
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朝廷
- 生年月日
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1835年3月17日
- 没年月日
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1895年1月15日
- 年齢
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満59歳没
皇族、政治家、軍人。和宮親子内親王との悲恋でも有名。皇女和宮と婚約していたが、公武合体政策により破談した。王政復古の政治クーデターによる新政治体制では最高職である総裁に就任。戊辰戦争では自ら志願し東征大総督となる。西南戦争でも征討総督となる。 (続きをみる)
一条美賀子
いちじょうみかこ
- 出身
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朝廷
- 生年月日
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1835年0月0日
- 没年月日
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1894年7月9日
- 年齢
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満59歳没
徳川慶喜の正室。
疱瘡で婚約破棄となった一条忠香の娘・千代君(照姫)の代役として、急遽嫁いだ。
そのせいか慶喜との夫婦仲はけして円満ではなく、たびたび衝突していたと伝えられる。
激動の幕末に最後の将軍となった慶喜は就任後も江戸城に入らなかった為、一条美賀子も正室でありながら大奥に入らず、政争に巻き込まれることはなかった。 (続きをみる)
No
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井上清直
いのうえきよなお
- 出身
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徳川幕府
- 生年月日
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1809年0月0日
- 没年月日
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1868年1月19日
- 年齢
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満59歳没
川路聖謨の実弟。老中・阿部正弘の抜擢により下田奉行に就任。
岩瀬忠震とともに、全権として日米修好通商条約締結に尽力した。 (続きをみる)
No
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山本権八
やまもとごんぱち
- 出身
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会津藩
- 生年月日
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1809年0月0日
- 没年月日
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1868年11月1日
- 年齢
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満59歳没
山本覚馬、新島八重の実父。妻は佐久。会津藩にて、山本家は兵法指南を務めており、権八の先代(良高)からは砲術も担当していた。会津戦争における一ノ堰の戦闘にて討ち死した。 (続きをみる)