【写真あり】もはや漫画。27歳で亡くなった高杉晋作の生涯が格好良すぎる【幕末】

  • 更新日:2019年10月13日
  • 公開日:2013年6月9日

幕末の英雄・高杉晋作。意外に知られてないその生涯をまとめてみたのですが、あまりに格好よすぎてまるでリアリティがありません。

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まず
高杉晋作はこんな人です。

高杉晋作の写真
イケメンですね。サッカー日本代表の本田圭佑にどことなく似ている気がします。

この人、まず決断力と行動力が尋常じゃない。

たとえば、自分は一文も持ってなかったのに、藩の後払いということで、無断で軍艦を購入したことがあります。

スケール感、ハンパない。

長州藩は、身に覚えのない数億円の請求が来たときに絶句したそうです。そんな高杉晋作の生涯をまとめてみました。

ときは幕末

高杉はかの有名な松下村塾で広く学問を修め、将来有望な逸材として、「松下村塾四天王」の一人に数えられます。

さて、この“将来有望”、というのが曲者。

師匠はといえば、「おまえら、どこまで狂えるの?俺はやるよ」が信条、衝撃の狂人・吉田松陰です。

吉田松陰の肖像画
黒船来航以来、日本中がピリピリしています。

“将来有望”な高杉は、四天王久坂玄瑞や弟分の伊藤俊輔らとともに、とりあえずイギリス大使館を焼き討ちにしました

久坂玄瑞の写真
四天王のひとり・久坂玄瑞
高杉晋作(中央)、伊藤博文(右)、山田顕義(左)
中央が高杉晋作、右が弟分・伊藤俊輔。

伊藤は高杉の幼なじみで、無茶をするときはたいてい引っ張りまわされ、ひどい目によくあってます。

高杉らのこの破天荒な行動に長州藩は度肝を抜かれます。

が、当の本人はまるで意に介さず、外国をうちはらう必要を説くわけですが、藩としては「晋作待て、落ち着け。今は時期じゃない」となだめる。

すると高杉。

「わかりました、では10年暇をいただきます」と藩に休暇届を出し、勝手に頭を剃り、武士から坊さんになってしまいました

もう完全におかしい。

封建社会なのに転職しちゃった。

時代を先取りしすぎてる。

さて長州藩ですが、けっきょくは「外国をうち払おう!」ということで、今でいう山口県・下関海峡を通る外国船にめったやたらに大砲を浴びせます。

するとどうなったか?

 
アメリカとフランスから凄まじい反撃をくらい、威勢の良かった砲台もわずか4日で占領されました

↓占領された幕末当時の写真。

長州藩の攘夷決行後、フランス海軍に占領された前田砲台
フランス軍に占領された長州藩の砲台(ベアト撮影)

そうなんです。

外国とは圧倒的兵力差があったのです。

長州藩、開戦してみてはじめてそのことに気づきます。途方に暮れた長州藩は、俗世を離れ山ごもりするあの男を呼び寄せます。

 

 

 

高杉晋作です。

藩の危機に、中央に舞い戻った高杉。
彼は、このとき誰も考えていなかった奇想天外な案を藩主にプレゼンしました。

 

「有志の士を募り
一隊を創設し、
名づけて奇兵隊といわん。」

 

有志。

つまり志が有れば、身分に関係なく徴用する。それが武士でなく農民であっても。

奇兵隊の写真
実際の奇兵隊の写真です。服装バラバラ。

厳格な身分制がまだ日本に残っていた時代。

高杉がぶち上げたプランは、あまりに革新的なものでした。彼は23歳ながら、初代総督として奇兵たちを率います。




余談ですが、力士のみで構成された力士隊なんてのも出来ました。

※以下は力士隊ではないけど、幕末の力士写真。まあイメージということで。

幕末の力士
ちなみに高杉晋作、これで少しは落ち着くかと思いきや8か月後には脱藩の罪で牢獄に入ってます。当時、脱藩って死罪すらある重罪なんですけど、この人5回は脱藩しています。(6回という説もあり)


さて、この頃の長州藩はさらにまずい事態に陥ります。

朝廷で我が物顔をしていた長州藩は、

会津藩薩摩藩クーデターで京都追放

池田屋事件新選組に急襲され、松下村塾四天王である吉田稔麿死亡

あまりに悔しいので出禁の皇居に押し寄せて抗議デモ決行

返り討ち。四天王久坂入江など有力人物あらかた死亡

「もう長州藩潰そうぜ」ということで、15万(!)の大幕府軍に攻めよせられる(第一次長州征伐

同タイミングで「いつぞやはよくもやってくれたな」と、外国の連合艦隊にも攻めよせられる

という、電光石火のフルコンボ炸裂で、あっという間に藩滅亡の危機を迎えます。

気がつけば、

 
山口県
VS
日本全国・アメリカ・イギリス・フランス・オランダ


 
という、もはや全く意味が分からない事態に突入します。しかも、迎え撃つ長州藩は有力人物がほとんど討死した後。

どうにもならなくなった長州藩は最後の望みとして、幽閉されているある男にすべてを託します。

 

 

 

高杉晋作です。

 

4か月の幽閉からとかれた松下村塾最後の四天王は、滅亡寸前の藩を救うためにふたたび立ち上がります。

高杉晋作、この時24歳。




高杉は、4カ国連合艦隊との講和使節として全権を任されます。引き連れるは、弟分の伊藤俊輔。伊藤は留学経験があり、通訳として同席します。

諸外国は、莫大な賠償金と日本の領土の一部拝借をもくろみ、手ぐすねをひいて高杉を待ちます。

その交渉の場に降伏の使者として現れた高杉の格好は、烏帽子直垂という威風堂々としたジャパニーズ・トラディショナル・スタイル。

そのあまりの揺るぎなさに各国代表は、「この男は本当に降伏する気があるのか?」と騒然とします。



常識破りだったのは恰好だけでなく、その交渉術も前代未聞のものでした。本題である山口県の彦島租借を要求されて、

高杉が前触れもなく始めたのは
古事記の講釈

「そもそも日本国なるは高天原より始まる。」ってな感じで、骨太の日本創世からはじめるもんだから、連合艦隊側は、もうぼう然。

シュールすぎてついてこれない。

ホワッツ・タカマガハラ状態。

けど、やめない。

クニノトコタチノミコトとかイザナギ、イザナミとか、もう訳の分からないことを、目の前のザンギリ頭は延々と続ける。

欧米人お得意の議論とか交渉とかぜんぜん通じない。

 

弟分の伊藤俊輔ですら、連合艦隊との講和の場で延々と古事記をそらんじる高杉に、これは気が狂ってしまったと絶句するわけです。

 

これ、いちおう高杉流の作戦で、日本は創造以来他国に土地を明け渡したことがないよという話なのですが、そういったことよりも、翻訳不可能な古事記講釈を嫌になるほど続けて、交渉自体をうやむやにしてしまおうという考えだったのではないかと。

伊藤によると、高杉は諸条件はのみましたが、彦島の件だけは絶対に引かなかったそうです。

そんな高杉の様子を、連合艦隊側の通訳アーネスト・サトウは後にこう振り返っています。

アーネスト・サトウの写真 「負けたくせに傲然と怒っていて、まるで魔王のようだった」

 

この場面、傑作大河ドラマ『花神』で再現されています。高杉役・中村雅俊と、伊藤役・尾藤イサオの掛け合いがとっても面白いのでぜひ(演説は3:25〜あたりから)



さて、連合艦隊とはなんとか落としどころをみつけました。

次は、VS幕府

一度は引き下がった幕府ですが、いつまた攻め寄せてくるかわからない。

長州藩内部は、幕府にひたすら恭順しようとする一派が支配。とにかくこの藩は、藩論がオセロのようにころころ変わるわけです。

連合艦隊講和の立役者である高杉ですら命を狙われ藩外に身を隠します。藩内では「幕府に対抗せん」という者もいるわけですが、行動を起こす前に粛清されていく。

そもそも状況を変えようにも、恭順派が握る藩兵が2,000人。

クーデターが仮に成功しても、衝突必至の幕府軍が15万人。

これではもう勝負にならない。

 

しかしある男がたったひとりで立ち上がるわけです。

 

 

高杉晋作です。

 

 

彼は、三たび、藩に舞い戻ります。

「我こそはと思う者は集え」と呼びかけ、期限を決め約束の場所でひとり待つ高杉。

ただ、こんな時に共に立ち上がってくれる松下村塾四天王は、もういない。

奇兵隊も自分の手を離れてる。

 

だれもこないかと思われたのですが、この呼びかけにこたえたものがいました。

 

 

いつも高杉に振り回されてきた、弟分の伊藤俊輔です。
(中央・高杉晋作、右・伊藤俊輔)

高杉晋作(中央)、伊藤博文(右)、山田顕義(左)

 

そして、

 

 

 

 

力士隊。

幕末の力士

ほか、ちらほらと集まったその数、総勢80人ほど…!

80人 VS 2000人。

絶望的な状況であることはなんら変わらないのですが、戦いを前に、高杉晋作はこう言い放ったといいます。

 
これよりは 長州男児の腕前お目に懸け申すべく

 
高杉が挙兵した功山寺には、そんな雄々しい姿が銅像となって伝えられています。

高杉晋作、功山寺挙兵の銅像
この命知らずのクーデターは成功し、高杉は長州藩を倒幕に統一。

幕府軍との全面戦争では、前代未聞の戦術を駆使しながらみごと勝利をおさめ、250年以上続く徳川幕府の権威を地に堕とすことで、一気に日本近代化への扉をこじ開けました。

が、明治という新しい時代がすぐそこまでやってきてるなか、高杉はこの戦いを最後に病により戦線を離脱。

戊辰戦争に参戦することなく、27歳でこの世を去ります

 

高杉晋作のあまりにも有名な辞世の句です。

 

おもしろき こともなき世を おもしろく




最後に。

高杉亡き明治における、おもしろきエピソードを紹介します。

高杉晋作が一文も持っていなかったのに、「これいるから」と、無断で購入した軍艦。

名は丙寅丸(へいいんまる)。

丙寅丸(長州藩軍艦)
購入後、この船は実際にどう使われたのか。


VS幕府軍。第2次長州征伐

高杉晋作が海軍総督として率いていたのがまさにこの船で、常識破りの夜間奇襲により、東洋一といわれた幕府艦隊を打ち破ります。

その後、幕末の動乱が終わると、この船は「ヲテント丸」と名前を変え、軍艦ではなく定期貨客船として、明治の世においてもその役割をまっとうしました。

 

もうひとつ。

 

高杉晋作にいつも振り回されていた、幼なじみであり弟分の伊藤俊輔。

たくさんの盟友が幕末で亡くなっていくなか、彼は明治に入っても生き残り、政治家となります。

 

 

後の初代内閣総理大臣・伊藤博文です。

伊藤博文(初代内閣総理大臣)

伊藤博文は兄貴分である高杉晋作の死後、彼を評してこんな言葉を残しています。

 

動けば雷電の如く 発すれば風雨の如し、
動けば雷電のようで、言葉を発すればまるで風雨のようである。

衆目駭然、敢て正視する者なし。
多くの人はただただ驚き、あえて正視する者すらいない。

これ我が東行高杉君に非ずや
これこそわれらの高杉晋作さんなのである。

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